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小説と駄文と感想を書くつもりです。

『二重螺旋』と「運命」について

 「結局はみんな、運命論者なんだ」

 僕が土乃目きこ名義で書いた最初の作品です。完成したのはつい先日ですが、実は取り掛かったのもつい先日のこと。何を隠そうこの作品四時間で作ったものなんですね。

 というのも、僕の所属する団体で他団体の合同部誌に参加するも締め切り直前で一人がドタキャンしたため、僕がその穴を埋めるべく代筆したんです。

 締切日まで一日の猶予しかなかったため、何を書くか迷う暇すらなかったんです。だから僕は自分の体験から引っ張ってくることにしました。

 幸いにも合同部誌のテーマは決まっていました。それは「運命」。運命をテーマに僕は自信の記憶をひっかきまわし、そのいくつかを無理やり継ぎ接ぎしてどうにか完成させたんです。我ながらよく書いたなと思う反面、拙い出来栄えだなぁとも後悔しています。

 さて、そんな「二重螺旋」ですが、特に語ることはありません。というか自分語りになってしまうので話したくないというのが本音です。

 「こんな作品を作っておいて、自分語りしたくないってのは無理があるんじゃない?」と思った方もいることでしょう。そうです、おっしゃる通りです。

 僕はこのブログという媒体を通して、自分語りをし、自己承認欲求を満たそうとしている気持ち悪い人間です。

 しかし、自分はできる限り自己表出は作品で行いたいと心に決めています。根拠はないのですが、そのほうが僕は自分に満足できるので。

 話が飛びましたし、前言を撤回するようですが、物語の補足を行ないます。でないと今回ブログ書いた意味がなくなっちゃうので。

  

 この「二重螺旋」は、山田(一人称)と、理子の運命が絡みあい、その形をすこしだけ変えるというお話です。二重螺旋構造のDNAを離して引き延ばすと、それらは二本の棒になります(実際にそうなるかは知りません。ごめんなさい)。例えその内実が同じでも、外見を変えることはよくある。そんな風に、少年少女の運命の行きつく先が同じ絶望であったとしても、我々読者には痛快な話に見えてほしい。そんな願いを込めて書きました。

 僕の想定では多分、山田の投げた椅子は理子の母を殺します。山田は殺人犯として少年院に、理子には消えないトラウマだけが残るでしょう。そうです。これはガチガチの悲劇なんですね。でも僕はこれを喜劇として描きたかった。その理由は、この話が少なくとも僕の体験から生じているからです。どんな形であれ、じめじめと過去の不満を書き、それを暗く終わらせることは「負けた」感じがしてなんかイヤだったんです。

 そんなこんなで、椅子を投げさせました。結果的には良いインパクトになったかなぁなんて思ってますし、ひ弱で女々しい僕自身の中にも、ロックな反抗心があったんだなと思えたので一石二鳥です。

 ちなみに、僕の小学校時代と中学校時代がこの話のモデルとなっています。異なる時間の僕自身を一つの物語で照らし合わせたらどうなるのかという疑問のもとに作っていました。そういう意味での「二重螺旋」というタイトルでもありますね。

 総括としてはこんなところですね。最後に運命について。

 親ガチャに代表される、決定論的で厭世的なあきらめムードが近年の主流であるように思われます、実際それを否定はしません。というか否定はできないです。僕が同じ苦しみを味わっているわけではないので。

 そんな退廃的なムード、「頑張るよりは要領良く生きよう」が僕らの世代のモットーになっているような気がします。これも否定はしません。僕もそうですし。

 けど、そんな時代だからこそ、明るく努力する人間は何倍も美しく、輝いて見えます。彼ら、彼女らは別に自分が運命に抗っているだなんて思っていません。だからこそきれいなんです。

 運命も受け入れ方次第だと思います。無視はできないけど、ずっと気にしていても何も変わりません。運命の特徴がその絶対性であるなら、人間の特徴は可変性です。変わらない運命を嘆くより、自身が変わろうとする人でありたいなぁと、今でも思っています。

「君、以外とクサいこと言うんだね。クールキャラぶってるのに」

 外野がうるさいので、ここらへんで終わります。では