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二重螺旋

二重螺旋

土乃目きこ

 僕は時速一六〇キロで椅子を投げ飛ばした。

 

 白瀬理子はいつも自身の境遇をあっけらかんと話す女子だった。彼女が母親に殴られてその瞼を何倍にも腫らしてきた朝のホームルームの時でさえ、彼女は努めて笑顔を保っていた。硬く層を作った指の吐きダコも、放課後にすぐ帰宅する理由も、高校で使うような参考書を持ち歩かなければならない理由も、彼女は決して語ろうとはせず、聞かれれば笑い話としてごまかしていた。

「ほら私ってそういうキャラだからさ。急にシリアスになられても、みんな困っちゃうだろうし」

学級委員の仕事で、僕と放課後の教室で作業をする彼女はそんな風に言った。それは諦めたような言い方にも感じられたし、「自分はキャラを守れている」という自負の念を含んでいるようにも思えた。

「それにさ、人に自分のことを伝えたって、何かが変わるわけじゃないじゃん」

そう言う彼女の眼は僕を見つめている。そうだとも。僕に伝えたところで、君の境遇は変わらない。変えることはできない。

 

僕は僕で、理子と似たような生き方をしていた。人に愛されることは苦手だったが、人に嫌われないことは得意だった僕は、全てをのらりくらりとかわし、時には諦め、時には逃げ、流されるままに生きて来た。そんなある種の「現状放任主義」が僕らの共通点だった。

そんな僕と理子が意気投合? するのは、ある種の運命だったのかも知れないと思ったこともあった。気の迷いでそれを本人に伝えてみたこともあった。

「君、以外とクサいこと言うんだね。クールキャラぶってるのに」

 夕日の差す六月の教室で、理子は僕の言葉にそう返した。

「別に、お前だって僕の前だと化けの皮がはがれるだろ」

 それを聞いた理子は無邪気にはにかんだ。

「喜びなよ。私、愚痴なんて君だけにしかしないんだからさ」

 諦めることに慣れ切った僕らにも、この気持ちを分かち合いたい日がある。僕だって、洗面所の汚れ一つで罵り合う両親がどうしようもなく嫌いになってしまう時があるし、彼女にも、彼女の母の虐待でしかない過剰な教育を愚痴りたい瞬間がある。

 一週間に一回の、放課後の一時間、委員会活動という名目を得たこの一時間だけは、僕らは互いのキャラクターを越えて語り合った。

 

「私たちみたいな人間のこと、『運命論者』って言うんだって。最初から全ては決まっているから、全てを受け入れて生きていく人間のこと」

 英語の参考書を開きながら、彼女は言った。夏休みが明けた九月から、彼女の勉強量と体の傷は増え、僕の家ではさらなる怒号が飛び交い始めた。彼女はもはやこの放課後の時間であろうと、ペンをとる必要に駆られていた。世間一般で言う、高校受験が近づいてきていた。

「そういえばさ、君はどうするの? 高校。やっぱり……」

「僕は行かない」

「そっか」

 兄の大学費を圧迫してまで、僕が高校に行けるはずがなかった。

「でも、行きたいでしょ」

「そんなに」

嘘ではなかった。以前はそう思っていたこともあったが、今は違う。進学したいと父に伝えたとき、僕は彼の静かな怒りを見た。そこには「聞き分けが良いことだけが取り柄の、頭も良くないお前がどの口を聞いてるんだ」という気持ちがありありと感じとれた。それを見た瞬間、かすかなやる気も消え失せた。

「お前はどうなんだよ。受かりそうなのか? 第一志望」

そう聞くと、彼女の顔は途端に曇った。

「別に言わなくていいよ」

「ううん、隠すことでもないし。でも、正直このままだとまずいかな」

 暗い表情を一瞬だけ見せた後、彼女はすぐに「まあ、わたし容量悪いポンコツだから」と作り笑いでごまかした。

 お互いにすでに気づいていた。例えこの場に二人しかいなくとも、本音を話しあえなくなってきていたことに。一度口を開いてしまえば、自分のすべてが口をついて出てしまうと

僕も思っていたし、多分彼女もそう思っていた。

 重くなった夕焼けを見て、先月よりも時間たつのが速いと、確かにそう感じた。

 

「運命論者、フェイタリスト。運命論を信じるもの。厭世的、ネガティブな意味で使われることが多い」

 彼女は手に持つ英単語帖の一文を読み上げた。先月使っていたものより、それはひとまわり分厚い。

「だってさ。なんかこれ、見方が偏ってない?」

「そんなもんじゃない。あんまり聞いてていい感じはしないし」

僕は淡泊にそう返した。

「よくない! 私たちのアイデンティティが下に見られてるんだよ」

「それはどうでもいい」

 そう言うと彼女はふくれっ面をわざとらしく作った。

「でも、僕ら以外の人が前向きで、ポジティブだって言うのは違うと思う」

 だって、彼らが僕や、彼女のような家庭に生まれたとして、それをありのまま現実と捉え、前向きで居続けられはしないと思うから。

「これが運命だって、諦めることぐらいは許してほしい」

 十月に入って、夕焼けはさらに短くなった。それと比例するように、彼女の母親が彼女を殴る機会が増え、僕の父親が母親を殴る機会も増えた。

 

 十一月に入る前、僕の家はついに崩壊した。今年中に両親の離婚が決まった。

 離婚届を持ち出したのは、いつも何も言わず、現状に耐え続けてきた母だった。兄が医学の道に進むために選んだ一年の浪人生活は母の心をとっくに壊してしまっていたらしい。

 母は、最初はおだやかそうに喋り出した。しかし、話が難航してくると状況は一転、鍋をひっくり返したように怒り狂い、父へ殴りかかった。父は父で、そんな母の姿をこれまで見たことがなかったのか、それとも母が反抗するなんて思っていなかったのか、その豹変ぶりにたじろいでいた。久々に帰宅していた兄は、二人に全くの無関心を貫いていた。実際、喚き散らす母に辛抱つかなくなって蹴り飛ばそうとする父の横を平然と通り、コンビニに行ってしまった。そしてそのまま帰ってこなかった。

 僕はただその光景を眺めていた。なにが起こっているかは、理解しようとしたらすぐにできてしまうので、ピントをわざとずらして、この光景を認識するだけにしていた。

 けれど、このボロ家の天井を割るような怒号が始まって三十分後にはそれもできなくなってしまった。

 もはや何をすればいいのか、疲弊しきって答えを出すことに疲れてしまった両親が、僕を同時に見つめてきたからだ。

僕は二人が何を望んでいるのか分かっていた。そして、彼らが自分の口からは言いたくなく、自分たちの自慢の長男の口からもそのセリフを言わせたくなかったことも分かっていた。

 僕は僕のキャラクターを、役割を、立場を、そして運命を理解していた。だから、望まれことを、望まれたとおりに実行した。

「父さん、母さん。離婚してください」

 

 十一月中、彼女は最初の委員会活動にしか顔を出さなかった。家での出来事が一息つき、受験もしない僕と違って、彼女は忙しかった。それは授業中の雰囲気からも容易に分かることだった。

 つい最近彼女は授業中の内職がバレて参考書を没収されていたが、その時の顔が印象的だった。それは反省でも、子供らしい怒りでもなく、恐怖を宿していた。

後から知ったことだが、彼女は同日に塾で行われるテストの予習をしていたらしい。次の日までその参考書は没収だと知り、愕然とした顔で授業を終えた彼女は、翌日になると目に青タンを作って登校して来た。

 彼女が虐待を受けていることは明らかだったが、それに言及する大人はいなかった。しようものなら、彼女の母親が血相変えて学校まで乗り込み、クレームを入れるからである。

 児童相談所へ押しかける教師なんて一人もいなかった。彼らにとってそれは「時間外業務」にすぎず、給料に代わってストレスが発生する仕事なんて誰もやろうとしなかった。

「結局はみんな、運命論者なんだ」

 夕焼けと夜が混じる放課後の教室で一人、僕は溢した。

 彼らは見て見ぬふりを選んだ。それが彼女の運命だと、そう考えて諦めた。彼らがたとえ「助ける勇気がなかっただけだ」と言ったとして、誰もそれが本当だったかなんてわからない。それに、彼女には今その瞬間しか存在せず、その瞬間の運命に翻弄され続けている。必要なのは言葉ではなく、行動だ。彼らは結局、「彼女を助けられない運命」を認め、ただそれを受け入れているだけだ。

 でも、それは僕だって同じだった。

 

十二月は最後の三者面談月間だった。一般受験を選ぶ生徒は、ここで志望校や滑り止めを確定させた。無論僕には関係のない話だったが、彼女は違った。

水曜日の放課後、図書館で時間を潰した後、何気なく教室前の廊下を通り過ぎると、彼女が教室にいるのが見えた。母親と、担任と、彼女。三人が座って話していた。

僕はつい魔が差して、ドア越しにその会話に耳を立てた。

「滑り止めはここ以外に受けないのかい?」

 困惑する担任の声が聞こえた。

「ええ」

 彼女に似た、しかし彼女の声を悪意的に捻じ曲げたような返事がした。彼女の母の声だ。

「何か問題が?」

「問題というかですね、万が一落ちた場合を考慮しますと……」

「浪人させます」

 強く言い切った母親の声に、ひと際若い声が驚いたようにはねた。僕は恐る恐る顔を上げ、ドアについたガラス部分から中の光景を除いた。するとそこには、青ざめた彼女の顔があった。

「ちょ、お母さん! 聞いてないよ!」

「当然よ。言ってないもの」

切れ長な目つきの母親が娘の言葉を一蹴した。

「あなたに言う必要がある? あなたは真っすぐ勉強だけしていればいいのよ」

 それを聞いた彼女は、顔を歪ませたあと、ひとしきり俯いた。でも、僕は知ってる。彼女は絶対に逆らわない。

その予感は的中した。案の定、彼女はいつもみたいに精一杯の作り笑いを浮かべた。

「そうだよね。私ポンコツだから、勉強だけしてればいいよね」

 声は崩れ落ちるように震えていた。彼女の運命が確定してしまったように思えた。

 僕は不思議とそれが許せなくて、気づけばドアを開けていた。

「理子はあんたのおもちゃじゃない」

 突然現れてそう述べた僕に一番驚いていたのは彼女だった。本当にただ、僕の存在が信じられないというように目を丸くしていた。教師は教師で驚きつつも、もめごとにならないよう僕に退室を促そうとした。しかしそれより先に、彼女の母親が僕に食いついた。

「あなた誰? 急に失礼じゃない。どんな教育を受けてきたの?」

 僕はその言葉を聞かず理子の方を見る。

「理子。訂正しろ。お前はポンコツじゃないし、勉強だけする理由もない。お前は母親の言いなりになる必要なんてない」

「でも……」

「お前の母親はお前の運命じゃない」

 自分でもなぜここまでやっているのか良くわかっていなかった。自分のことに関してはあれほど無関心になれた僕が、今では他人に対してここまで干渉している。自分のキャラクターを、主義を、そして運命を飛び越して、何かに抗っている。

 無視をされた母親の矛先は僕に向かず、彼女に向いた。きっと彼女を傷めつけて、自分の安心を図るつもりなのだろう。

「理子、あなたね。こんなバカなガキとなんで知り合いなの? なに? お母さんをだましていたの?」

 そう言って彼女の首を万力のように締め始めた。教師は何をするでもなく、ただ慌てることしかできていなかった。

 彼女の口からかひゅうと音が漏れた。力ない音だった。

「やめてほしかったら、ちがうと言いなさい。あんな男は知らないと言いなさい」

 彼女の細い首筋が引き延ばされていく。すでに彼女は目に涙をため、降参しきっているように見えた。

「ひ、い、言います! 言います!」

 それを聞いた母親は力を緩めた。彼女はそれで呼吸を取り戻した。荒くなった息を整えようとするその手は小刻みに震えている。

そうして、母への謝罪と、僕に対する拒絶の言葉を継げようと、彼女は口を開いた。

 だがその時、理子は僕と目を合わせた。彼女が僕の瞳に何を見たのかは分からない。少なくとも僕は、彼女の腫れた瞼の下の眼が、僕と同じ色に変わるのを見た。

 それから彼女は深呼吸して、叫んだ。

「誰が言うかくそババア! 私はあんたのオモチャじゃねーし、山田は私の友達だ!」

 それを聞いた瞬間、母親の額に青筋が走り、彼女の首を再び締め上げ始めた。横で見ている僕にも分かる。あれは殺す気だ。

 彼女を救わなきゃ。

 そう思った僕は、気づくと近くの椅子を手に取っていた。そしてこちらに背を向ける母親の頭に狙いをつけ、すでに振りかぶり始めていた。その重さに、一瞬相手の命を心配したが、すぐにそんな考えは飛んで行った。

一連の動作は、自分でも驚くほどスムーズに行われた。もしかすると、この結末すらも運命だったのかも知れない。

 しかし、それも今となってはどうでもいい。これが決められたことであろうと、そうでなかろうと、些細な問題だ。僕と彼女の運命が交差して形を変えた。多分それだけのことなのだろう。

 迷いなどあるはずもない。

 

 僕らの静かな怒りは、時速一六〇キロで飛翔した。